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流れるように流れない

イラストレーターます子の、考えたこと、気づいたこと

制作することは会話すること。10年前の文章から。

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ふと思い出し、美術の専門学校に通っていたころに書いた文章を読み返してみたら、今の自分にとても刺さったので、ここに残しておこうと思います。

書いたのは10年前。「興味がある作家について」というタイトルで、彫刻家の船越桂さんについて、また、そこから学んだ、自分の作品作りの志みたいなものを書いています。

 

私は立体が苦手だ。予備校の立体の課題では、いいと言われた覚えがほとんどない。
だからこそ反発するように、平面での表現にこだわってきた。鑑賞に関しても同じである。
しかし、船越桂の彫刻作品だけは私にとって特別であるらしい。

 

はじめて彼の作品と出会ったのは、天童荒太著「永遠の仔」の表紙で、であったと思う。
写真におさめられたその不思議な人物像は、ずっと私の心にひっかかっていた。
一目で衝撃を受けた、というのはあまり似つかわしくない。
なぜならそれからしばらく、彼の作品のことは頭から離れていた。
しかしその何気ない出会いは、ずっと水の深いところで泳いでいた魚がふっと水面に顔を出したように、私の何かに静かな波紋を広げていた。

 

はじめて見る作品なのに、はじめて見た気がしない。
彼の彫刻はとても個性的な外見をしているのに。
へその少し下で切れる、独特なプロポーションの人物像。
ぱっと見日本人ではないような、日本人のような、ミステリアスな顔つき。
静かにそこに立っているのに、うねりのようなものを感じる佇まい。

 

一度だけ船越桂に絵を教わったことがある。
彼が客員教授を務める造形大学のオープンキャンパスで、デッサン講座を開催していた。
三年前の夏だ。開催をパンフレットで知り、広い大学の奥の方にある彫刻科のアトリエに、友人とドキドキしながら歩いていったのを今でもよく覚えている。
モデルを教室の真ん中に座らせ、その周りを囲んだイーゼル、という私にとっては慣れた風景だったが、それはいつもより緊張する体験だった。

 

船越桂は、私のデッサンを見て、とても基本的なアドバイスをしてくれた。
「頭の切れ方がよくない。もうちょっと全体的に上に上げてみたらどうかな。」確かこんな言葉だったと思う。
それは私に安心のようなものを与えてくれた。
彼のように個性的な作品も、私の習うような基礎と同じところから生まれている。
決してただやみくもに、人と違うことをしようとした結果ではないのだ。
ともすればアートは、ただ突飛であればいいという見方をされがちだ。
作品が作者の中だけで完結し、閉じられた世界になってしまう。
すると、作品に触れる人たちはどこから入っていけばいいのか分からず、「分からない」という言葉で、作品と会話することをやめてしまう。

 

しかし船越桂は、むしろ造形としての基本を大事にする。
「作っているものが、ちゃんと成り立っているかどうか。立体としてでも、作品としてでも。」
制作に関して彼がこう発言したことからもそれはうかがえる。
その確固たる考えは、作品を見る人との間でツールとして働き、作品とのコミュニケーションに生かされる。
だからこそ私は肩から手が生えていたり、体の前後が逆になった不思議な彼の作品にも、どこか懐かしさを感じ、会ったことのあるような思いが生まれるのだと思う。
きっとそのとき私は作品と会話をしている。
アイコンタクトとか、スキンシップではなく、はっきりと言葉を使って。
こんな思いを呼び起こされるのははじめてだったので、私は本やインターネットで彼について調べた。
一体彼はどのようにして作品を作っているのだろう。

 

彼は丁寧に丁寧に何枚もデッサンをしてから、「運命的な出会い」をした楠を土台にして形を表していくそうだ。
さらに洋服の部分や顔の部分に彩色を施し、大理石で目を入れる。
目の部分は、白い大理石に色鉛筆で瞳を手描きし、エナメルに長時間浸したものであるという。

 

そして、彫刻作品の一つ一つに付けられた名前がなんともユニークであることを知る。
「月から降る雨」
「本の中の水路」
「白い歌をきいた」
「風をためて」
「深い水の内側」
…月から降る雨という名前が付けられていても、実際に月があるわけでもない。
本の中の水路という名であっても、本があるわけでもない。
まるで詩のような、抽象的な表現である。
ともすればこのような命名の仕方は、作品そのものと離れて一人歩きをしてしまいがちだ。
しかし彼の作品はなぜか、この詩のような名前たち以外、作品に寄り添わない気がする。
むしろこの不思議な名前たちが、作品と見る者を繋げてくれる。

 

制作することは会話すること。
私は今まで、制作することは表現することだと思っていた。
いかに正確に私の思いを見る人に伝えられるか。
もちろん表現を磨くのは大切なことである。
だがそれが最終的な到達点ではないと気づいた。
きちんと自分の思いを伝え、相手の思いを受け取る。
そういったコミュニケーションが取れる、開かれた作品でなくてはならない。
見る者が入り込めるよう、ドアの鍵は開けておかなければならない。
だから私は、まずは言葉で誰かとつながれる自分でありたいと思った。
日常のコミュニケーションから、非日常のコミュニケーションは生まれるのではないだろうか。

 

船越桂の作品に実際に出会ったのも夏だった。
静岡の掛川にある資生堂アートハウスで、やっぱり彼の作品は静かに佇んでいた。
近くもなく、遠くもない、いとこに会うみたいな懐かしい気持ちになって、私はきっとちょっと緊張しながら、でも話したいことをいっぱい浮かべながら、少しずつその作品と会話ができたと思う。